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『やまなし』と聞いて、最初に思い出すのはクラムボン?
不思議な名前が気になって、結局あれは何だったんだろう、と止まってしまうこともあるよね。
でも、そこで本を閉じるのは、ちょっと待って。
十二月の、いい匂いが広がる場面まで行ってみよう。
宮沢賢治の『やまなし』は、谷川の底を舞台に、五月と十二月の二つの場面を描く短編。どちらにも、水の上から何かが入ってくる。けれど、かにの子どもたちが出会うものと、そのあとに続く時間は違うんだ。
クラムボンの正体は、今回読んだ本文では明示されていない。ここではそれを一つに決めるより、見えたもの、聞こえた言葉、父親が説明したことを順に見ていくよ。結末にも触れるので、先に作品を読みたい人は青空文庫の本文からどうぞ。
本文は青空文庫の新字新仮名版を最後まで確認した。紙で読む候補には、『やまなし』を収める新潮文庫『新編 風の又三郎』を紹介する。ただし、文庫全編を読了した感想ではなく、この一編へ近づく読書案内です。
クラムボンの答えを先に出さなくても、二つの季節は読める
作品の最初には、谷川の底の二つの場面が示される。そして五月の、かにの子どもたちの会話へ入っていく。クラムボンについて笑った、死んだ、という言葉が交わされるけれど、その正体を説明する文章は置かれていない。
これを知らないと、話を読めないのかな。
そんなふうに思ったら、まず子どもたちが何を見ているかへ目を移してみて。
水の上や横の色、流れる泡、近くを通る魚。名前の答えが出ていなくても、場面の中で何が動いたかは追っていける。分からない言葉を残したまま、先を読めるところがあるんだね。
また、子どもたちの会話は、いつも大人の説明のように整理されているわけではない。問い掛けても分からないと返し、そのあと別の言葉が続く。理由が全部そろわない会話のまま、川の中の出来事が動いていく。
読書メモなら、クラムボンの横へ、今は本文で正体を確定できない、と一行残してみよう。それから五月と十二月の見出しへ進む。知らないものを勝手に埋めないことと、読書を止めることは、同じではないよ。
誰かと読むときも、正体を当てる一問だけにしなくていい。どの場面の言葉が気になったか、子どもたちの声がどこで変わったか。答えの根拠を本文で指せる問いへ広げれば、同じ話の違う場所を一緒に見られる。
たとえば、作品の途中で同じように落ちてきたものへ、子どもたちがどう反応するか。その反応が前の季節とつながるところには、名前の謎とは別の読みどころがある。今回はそこを順に追ってみよう。
紙の本を選ぶなら、表題が別の作品でも『やまなし』が入ることを目次で確かめたい。新潮社の『新編 風の又三郎』には、最初の収録作品として『やまなし』がある。書名の印象だけで探すより、入っている一編へたどり着きやすいよ。
川の「天井」を見上げると、いつもの景色が逆になる
この物語で何度も出てくるのが、かにたちの上にある天井。
建物の中にいるのかな、と思ったら、舞台は谷川の底。かにたちの位置から上を見る言葉として読んでみよう。
人間が橋や岸から川を見るときには、水面の向こうに底がある。けれど、この物語では下側から上を見ている。上から落ちるもの、光の揺れ、泡の行く先が、違う順番で目に入ってくるんだ。
五月には日光が差し、底の岩へ光が網のように映る。魚が動くと、その光の様子も変わる。魚がただ登場して退場するのではなく、魚が通ることによって、見えていた景色まで動いていく。
ここを読むなら、魚が何を表すかを先に決めるより、その前後で何が変わったかを見てみて。光がどう見え、影がどこを通ったか。文章が読者の目をどこへ向けているかを、一つずつ確かめられるよ。
十二月には、月の光の描写になる。ラムネの瓶になぞらえた表現も出てくるけれど、川へ本物の瓶が落ちている場面と混同しないでね。何が実物として登場し、何が光のたとえに使われているかを分けると、景色を思い浮かべやすい。
同じ青い色調があっても、五月と十二月を同じ照明の場面として扱う必要はない。片方は日光、もう片方は月光。まず、その光を確かめてから、読んでいて受ける印象がどう違うかを話してみよう。
実際の川や生き物についての観察記録と、物語の表現も分けておきたい。本文のたとえを、そのまま自然科学の説明へ変える記事ではないよ。ここでは、かにの目線を借りることで、知っている川がどう見え直すかを楽しみます。
試しに、五月の光と影の箇所だけ読み返して、そのあと十二月の月光へ移ってみる。筋を急いで追ったときには通り過ぎた場所にも、目を止められるかもしれない。短い作品だから、同じ場所へ戻る読み方もしやすいね。
水の底の描写を読み返す一冊として、『新編 風の又三郎』を見る
五月は、魚を見ていたら、もっと上から何かが来る
五月、子どもたちの上を魚が行ったり来たりする。弟がその理由を尋ねると、兄は、何かを取っているのだと答える。ここでは兄が魚の動きをどう受け取っているかも、会話の一部になっている。
兄がそう言ったことと、語り手が魚の目的を全部説明したことは別。誰の言葉なのかを見ながら進めよう。子どもたちが世界を知っている範囲にも、まだ分からないところがあるんだね。
そこへ、青く光るものが上から入ってくる。先の尖った形が見え、魚の白い腹が光る。そのあと、魚も青いものも見えなくなり、子どもたちは動けなくなる。
最初から鳥の名前を知って読んでしまうと、出来事は簡単な説明に見えるかもしれない。でも本文では、まず色や形、突然の動きが来て、そのあとで父親がかわせみだと説明する。子どもたちにとっては、名前より先に怖さが届いている。
ここ、順番を戻して読むと、緊張が伝わってくるよ。目の前で何が起きたのか分からない。それを父親へ説明しようとして、子どもたちは見えた形を言葉にする。名前を知らないからこそ、どんなふうに見えたかが大事になるんだ。
父親が安心させようとしたあとにも、子どもは怖さを訴える。説明を聞けば、その瞬間に全部平気になる、という形にはなっていない。花びらや光の美しい描写が戻っても、怖さを簡単に消して終わらせないところを見ておきたい。
この父親の言葉を、現実のすべてのかにとかわせみの関係を示す生態資料として扱うこともしない。物語の中で、父が子どもへどう話したかとして読む。その区切りを置けば、生き物について別に調べるときも資料を混ぜずに済むよ。
読書の問いなら、魚が何をしていたか、上から来たものをどう見たか、父親の説明で何が分かったか、まだ何を怖がっているか、と段階を分けてみる。最後に怖かったと一言だけ書くより、どこから怖くなったかを話せる。
そして、その五月の記憶を持ったまま、十二月へ進もう。同じように上から何かが落ちるとき、子どもたちが何と受け取るか。前の場面を読んだことが、次の場面の一言へつながってくるからね。
十二月にも、落ちてきた瞬間は怖い。でも親子はあとを追う
十二月になると、かにの子どもたちは大きくなり、川底の景色も変わっている。季節が替わったことは、見出しだけでなく、石や水晶などの描写からも伝わってくる。
そこで兄弟がしているのは、泡の大きさ比べ。
自分のほうが大きい、いや同じだ、と張り合っている。
五月の不思議な名前の会話とは、声の動きが違うね。競い合って、相手のやり方がずるいと言いたくなる。短いやり取りから、兄弟が同じ場所で遊んでいる時間を感じられる。
父親がもう寝るように言い、弟が自分の泡を認めてほしがっている。その最中に、黒く丸いものが落ちてくる。子どもたちは、かわせみだと思って身をすくめる。十二月だから初めから全部穏やか、という場面ではないんだ。
あ、五月のことが、ここで戻ってくる。
落ちてきたものを見た瞬間に、前に出会った怖いものの名前が出るんだね。
父親はよく見て、それがやまなしだと説明する。そこから、匂いが広がり、親子は流れていく果実のあとを追う。何かから身を縮める動きが、何かについていく動きへ変わるところに注目してみよう。
五月と比べるなら、色の明るさだけで区切るより、子どもたちの身体の向きと、会話の続き方を見てみる。怖くて動けなかったのか、父親と一緒に歩き出したのか。出来事のあとに何ができるようになったかが違う。
親子が三匹で歩き、その影も三つできる描写もある。ここで、かにが六匹に増えたと読まないように、実際の親子と影を分けてみよう。足取りと影が重なることで、場面の動きが見える表現として味わえるよ。
読み比べのメモなら、五月は上から来たものと魚の行方、十二月は落ちてきた果実と親子の行方を並べてみる。両方に落下がある、と気づいたところから、そのあとに誰がどこへ行ったかまで追うと、違いが具体的になる。
十二月のやまなしを、すべての問いへの正解として置く必要はない。でも、題名の果実が現れたときに、物語の読み方が変わる。その変わり目を、自分が本文で見つけた場所から話せると面白いね。
二つの季節を行き来して読むため、収録文庫の販売情報を確認する
おいしそう。でも、物語は「食べ終わった場面」では閉じない
やまなしは流れていき、木の枝に引っ掛かって止まる。父親が熟し具合や匂いについて話すと、子どもから食べ物への期待が表れる。
ここまで来ると、食べる場面まで描かれそうな気がするよね。
でも、親子はその場で果実を食べて終わるわけではない。
父親は、二日ほど待ったあとのことを話し、親子は自分たちの穴へ帰っていく。読者が見届けるのは、これからへの期待を持って帰るところ。実際に二日後どうなったかまでは、この短編に書かれていないんだ。
だから、最後に食事や宴が行われたと、あらすじへ足してしまわないようにしたい。そうなりそうだという想像と、物語の中で描かれた出来事は分けておこう。描かれていない時間を残すことで、最後の静けさも見えやすくなる。
父親が酒について語る箇所も、作品内の台詞として読む。現実の果実を水に置けば同じように飲める、とする作り方の案内ではありません。食べ物に関心が向いたとしても、物語の言葉から現実の調理手順を作らないでね。
五月では、魚の行方について父親が話し、子どもはまだ怖がっていた。十二月では、父親の話が、待つ時間と、明日以降の期待へつながる。同じ親子の会話でも、最後に残る時間の方向が変わる、と読めるよ。
そこで、五月は悲しい、十二月はうれしい、と二色だけで塗らずに読む余地ができる。十二月の初めには張り合う声があり、落ちてきた瞬間には怖さもある。そのあとに期待が生まれる。短い場面の中にも、気持ちの段差があるんだね。
結末が温かく感じられたなら、どの言葉でそう思ったかを一つ探してみよう。親子が一緒に追ったことなのか、待つ楽しみができたことなのか、帰る場所があることなのか。それは読み手の感想として、本文の出来事へ結び付けて話せる。
自分と違う場所を選ぶ人がいても、その読みをすぐ訂正する必要はないよ。どこを読んでそう受け取ったかを聞くと、もう一度開いてみたくなる。短い物語を読み返す楽しみは、正体を一つ当てることだけではないんです。
結末の会話へ戻って読みたい人は、『新編 風の又三郎』を見てみる
紙で読み返すなら、表題より目次にある『やまなし』を確かめよう
この一編が気になったら、まず青空文庫の公開本文で最後まで読める。短い場面の前後を行き来したいなら、本文の見出しが二つあることを手掛かりにしてみてね。
手元に紙の本を置く候補が、新潮文庫『新編 風の又三郎』。新潮社の現行書誌では416ページ、宮沢賢治の童話16編を収録する本として案内されている。今回取り上げた『やまなし』は、その中の一編です。
青空文庫の底本にも同じ書名が記されている。ただし、現行の文庫と公開テキストの底本の刷やページ位置まで、すべて同一と確認したわけではない。販売店では405Pという表示もあり、新潮社の現行案内416ページとは一致していない。届く版の詳細が必要なら、販売店へ確認してね。何ページと固定するより、目次で『やまなし』を探そう。
買う際は、新潮文庫、著者名、書名の「新編」、ISBN9784101092041を合わせる。『風の又三郎』という題名だけでは、別の収録内容や別の出版社の本と混ざることがある。読みたい短編が入るかを先に決めたいね。
すぐ買うか迷うなら、公開本文で一度読んで、戻りたい場面が残るかを見てもいい。図書館で同じ巻を探すこともできる。短編が気になった勢いを、全部そろえる買い物へ変えなくても、読書は始められるよ。
価格や送料、在庫と発送予定、新品・中古・電子書籍の違いは注文時に確認してください。今回の紹介では、ほかの15編を読了したことや、購入した現物の使い心地を語ってはいません。
出典は、青空文庫の『やまなし』新字新仮名版全文と、新潮社の書誌・目次。正体の定説をすべて調査した研究論文ではなく、本文から季節の違いを読むための案内です。
最初は、不思議な名前の答えが気になっていた。読み終えたら、五月に動けなくなった子どもたちと、十二月に父親について歩く子どもたちを、もう一度比べてみよう。
同じ川の底なのに、次に待っている時間が違う。
その変わり目を一つ見つけたら、今日はそこから読み返してみてね。
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